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​腔 サンプル


こいがすきだ。あかくてきんいろ。およぐとなみが立つ。ひらひらするしっぽがふわふわしている。すきだけど、どうしてすきなのかは分からない。でもずっと見ていられる。


「処刑人」
 背後から彼を呼ぶ声が聞こえる。庭の池で泳ぐ鯉をのぞいていた青年、犬飼 昭春は立ち上がった。一つの混色もないような、黒の髪がゆれる。端正な顔立ちにうかぶのは、感情値がほとんどゼロの無表情だ。なんの光線も届かないような、黒曜石のような瞳。ボタンを首元までとめたワイシャツと、黒のネクタイ、しわのないスーツ。歳は十七、十八ほどだった。
 昭春が振りかえった先には、三十代らしきスーツ姿の男が、ズボンのポケットに手をいれながら縁側に立っていた。その奥、畳張りの部屋には、縛られた男が座っている。押さえつけられ、抵抗するように身を動かしていた。
「仕事だぞ」
「はい」
 靴をぬいで几帳面にそろえると、昭春は部屋にはいる。彼が歩くごとに鳴るミシミシという音が近づくと、縛られた男の顔面は青くなっていった。
「助けてくれ……、殺さないでくれぇ……」
 命乞いをする男を前にしても、昭春は「無」の表情を崩さない。彼が考えていることは「命令」と「実行方法」の二点だけだ。その過程で発生する、人命を取りあげる行為への情を、彼は感じたことがなかった。「実行」のために、尻ポケットから革の手袋を取りだすと、いつものように手をいれる。
 昭春を呼んだ男が、彼の肩に手を置いて、今から絶命する相手を見下ろした。
「こいつにそんなこと言ったって通じねぇよ。な、”処刑人”」
「はい」
 機械的に返事をすると、男は機嫌を良くしたらしい。昭春の手に刃渡り三十センチほどの包丁を置いて、肩を二回軽くたたいた。開始の合図だった。
 ワイシャツのボタンを外す。服を脱いで床に投げると、昭春の背中に隠れていたものが姿を現した。首から腕、背中から腰にいたるまで、繊細に刻まれた黒い鯉がいる。
 死の予感に、男はいっそう大きく震えあがった。
「殺れ」
 待てを解除された犬のように、獲物に食らいつく勢いで、昭春は包丁を振り上げた。
 
 
 
人間からこんな音が鳴るんだ。隣にいる、はいったばかりの若い組員がそうつぶやく。少し離れた広間からは、肉屋でもしないような、皮を剥ぐ音と叫び声が聞こえる。
「庸二さん。あいつ、なんなんすか。生きたまま解体しはじめましたけど……」煙草を吸っていた手で口元を覆う。「オェッ」
 昭春を”処刑人”と呼んでいた男、大藏 庸二は機嫌の悪い顔で吐きそうな新人の頭をたたいた。
「おい、ここでは俺を『若頭』って呼べ馬鹿」
 庸二も煙草を取りだすと、火をつける。彼は昭春の行う仕事に慣れているようで、部屋の様子を平然とのぞきながら煙を吸った。
「あいつは”処刑人”っつってな。俺達親子の持ち物だよ」
 血が飛び散る音が断続的に鳴り響く。青くなる新人と対照的に、庸二はにんまりと口の端を持ち上げた。煙草の肴にしているようだ。
「俺達のために、あぁいう役割をするように育てられた奴」
「へぇ~……、ヤバいっすね」吐きだしそうなものをなんとか飲み込んで、新人は再び煙草を口に運ぶ。「ちなみに、アイツの名前って……」
「名前?」
 投げかけられた質問に、庸二は煙を吸いながら考える。肺の隅々まで疑問をいきわたらせてみたが、答えを思い出せなかった。
「忘れた。ここではアイツを名前で呼ぶ奴はいねぇよ」
 

「処刑人」
 七十歳程の老人が、布団に横たわりながら名を呼ぶ。彼の喉には太いくだがとおり、枕の横に置かれている機械につながれていた。
「はい、頭」
 昭春はその横に立ち、頭と呼んだ老人の顔を見る。目も悪いのか、彼は探るように手を動かし、昭春の指先をつかんだ。存在を確かめるように二、三度指の腹をもんだ後、口をひらいて笑うような表情をする。
「よくやってるようだな。あのバカ息子の面倒も引き続き見てやってくれ」
「はい」
 ふいに、指をしめる力が強くなる。つられて頭の方を見ると、白くにごった目が力強く輝いた。老いて今にも死んでしまいそうな男。無表情に近いしわの動きは、若い頃に相手へすごんでいたときほど怖くない。それでもなお、消え去ることのないヤクザのトップとしての気迫が、昭春の目から侵入して脳を震えさせた。
「……、わかってんな? お前は、お前の父親は、俺が拾って面倒みてやったんだ」
「はい」昭春は教えられた通り、簡潔に従順な答えをかえす。
「お前には戸籍はねぇ。保険証もねぇ。免許証も偽造だ。お前は、この場所以外では生きてねぇことになってんだ」
「はい」
「だから……、俺が死んでも、この大藏組によく仕えろ。ここだけがお前の居場所だ」
 つかんでいた手を胸元へ動かすと、心臓のあたりに置く。大人しい鼓動が、手のひらを通じて昭春に伝わってきた。
「はい」
 頭の手を握り返しながら答える。
 昭春はもとより、この場所にも、自分の立場にも、疑問を感じたことがなかった。頭がこれを聞かせる意図もよくわからない。
 自分は「処刑人」であり、「いきていないもの」であり、「所有物」であった。そうである以外に、自分の存在につけられた意義が、思い当たらなかった。
 頭は満足したようだ。昭春から手を離すと、喉にくだが入っているとは思えない音量で、廊下に待機していた男を呼んだ。
「榎原ァ‼」
「はい」
 庸二と同じ年ごろに見える、三十代程の男が布団の横にたった。すべての丈がきっちりと身にあったスーツ。眼鏡に覆われた鋭い眼光は、どこか頭に似ていた。ポマードで固められたオールバックが光を反射する。
 榎原は両手を前であわせ、鉄骨でもはいっているかのような真っすぐな背筋でたった。
「若頭のお前もだ。この組のために死ぬつもりでやれ」
 頭はため息をつく。
「バカ息子にこの組は任せられん。期待してっからな」
「はい」
 線を一本、定規で引いたような声で榎原は返事をする。昭春は、この男が息子の庸二を差し置いて若頭に選ばれた理由がわかるような気がした。
 ズレた眼鏡をなおしながら、榎原は口をひらく。
「……、さっそくですが、ご相談です」
「おぅ、なんだ。いってみろ」
「処刑人に、仕事を任せたいのですが」
 

 「犬飼 昭春」
 めくりあげられていた紙が伏せられる。そうすると、声の主の顔が紙の向こうから出てきた。
 三十代程のやつれた男。ずっと切っていないのか、伸びすぎた痛んだ金髪を頭の後ろで結び、病院に不釣り合いなアロハシャツに白衣を着て、診察室に座っていた。細い茶色の目が、切れ長の瞼に収まっている。よく煙草を吸うのだろうか、狭い空間に甘い煙のにおいが充満していた。
 昭春を値踏みするように見て、医者の男はあごをさする。
「……、次の処刑人はお前か、若いの」
「はい、遠山 銀二先生。父もお世話になりました」
「父子そろってフルネームで呼ぶなって」
 紙をはさんだクリップボードを机の上に放り投げる。頭の名前が書かれたカルテと、昭春の情報が記入されたメモが卓上に散らばった。
 銀二は体勢を崩し、あごをついて足を組む。
「それで、今まで来てた小林君はどうした。若頭の部下の……」
「小林さんは今、海外出張中ですよ。……海の底の」
「……」
 返答に、銀二はあきれたような顔をする。次の句を継ごうとして、開いた口から、ため息だけ漏らして閉じた。ごまかすように、自身の胸ポケットから煙草の箱を取りだす。ピンク色に印刷されたパッケージは、甘い煙を想像させた。
「若頭から聞いています。この病院……、若頭が乗っ取りを計画しているんですよね?」
「おう。お前は二週に一回、頭の薬を取りにくるついでに、その進捗報告をうければいい」
 パッケージから一本、煙草を取りだす。それを口にくわえて、火をつけるために銀二は軽く下を向いた。カチ、と音がなってライターから火がでる。目の端で、昭春が口の端を持ち上げて、機械のような笑みをうかべているのが見えた。
「……、若頭からは、他にも仕事を聞いていますが」
「は?」
「遠山先生の進捗を適度に応援しろと」
 手が。
 その形をきちんと認知する前に、銀二は胸倉をつかまれ引き寄せられた。眼前に広がる顔が、笑っている人間を無理に真似したんだろうな、と思わせる表情をうかべる。
「進捗いかがですか?」
 勢いで落ちた煙草の火が、銀二の靴を焼く。音がするほど襟首を握られて、首が締まった。生ぬるいことをしたら容赦しない。そんな意図が込められている応援に、降参の意味をこめて両手をあげる。
「……、ハァ。そんなことしなくても大丈夫だっつの。俺が大事なのは一に命、二に金だ。お前ら裏切って命なくなったら元も子もないっつの」
 返事を聞いて、昭春は力を抜く。手を離され、浮いた尻が椅子に着地して音をたてた。銀二は軽くせき込んで、乱れたシャツの襟元をなおす。
 こほん。わざとらしく一息ついて調子を戻した後、銀二はポケットから畳んだ紙を取りだし、昭春に渡す。
「ほれ、とりあえず報告書。若頭に渡しとけ」
「ありがとうございます」
 丁寧に両手で受けとると、懐にしまう。
 報告書を受けとること。ちゃんと進捗をせかすこと。処刑人に下された命令は達成した。そう判断した昭春は、話を終わらせようとする。
 その時だった。
 流れ星がとんだ。
 いや。
 そう錯覚しただけだった。ただ、昭春の目の端に、赤と金の光が走ったような感覚がたしかにあった。
「……」
 光源を探す。消えたり現れたり、揺れるひかり。星の尾を追いかければ、机の上に置いてあるものに行きあたった。
 本だ。布製のブックカバーに、円状の何かが隙間なく縫い付けられている。それはところどころ光沢をもっていて、まるでまぶしい水面を眺めているようだった。絞られていた視点を自分の元へ手繰り寄せれば、全景が見えてくる。丸と穴。赤と金で出来たそれは、いつも眺めている、池の鯉とそっくりな形をしている。
 こいはすきだ。
「なんだよ」
 あまりにも真剣に眺めるので、銀二は不審に思ったようだ。昭春は気にせず、ブックカバーを指さしながら質問を投げかける。
「これって……、鯉ですか?」
「そうだけど。なんだ、気になんのか? 読み終わったし、そんなに気になるなら貸してやるよ」
 ほれ。銀二は軽い調子で本をつかみ、昭春に差しだす。円と円が触れあって、かすかに金属が鳴ったような音がした。
 本を受けとると、円が壊れてしまわないように、慎重にカバンの隙間へおさめた。
「ありがとうございます。それでは、お借りします」
 昭春は立ち上がる。銀二が再び煙草をくわえ、人懐こそうと胡散臭そう、その中間ぐらいの笑みをうかべると、力なく別れの手をふった。
「おう、頭と若頭によろしくな。犬飼」
 
 
 
 穴。回転と移動をすることで、黒の残像を残しながら線になる空洞。次第に失速し、銀のホイールに開けられたそれは、完全な丸になった。
「遅い‼」
「すみません」
 怒号と共に庸二は助手席に乗り込む。迎えにくるのが遅くなったことに腹を立てているのだろうか、貧乏ゆすりをしながら、荒々しい手つきで胸ポケットをまさぐった。扉をしめたことを確認すると、昭春は車を発進させる。
 時間通りにくることもできねぇのか、そんな種類の愚痴が庸二の舌の上をぐるぐると回っている。判を押すような、事務的な返事を昭春は繰り返した。
「親父の医者んとこ、行ってたんだろ? わざわざお前に行かせなくてもいいだろうがよぉ‼」
 苛つきのまま、庸二は煙草を取りだそうとする。箱を上下に強くふってみるが、音がなるだけで口からは何もでてこない。うまくでてこない中身に対し限界になったのか、彼はちぎるように紙を分断すると、目的のものを引っこ抜く。興奮から震える手で火をつけて、齧るように口にはさんだ。
「それに、あの医者! アイツ、榎原と仲がいいから気に食わねぇんだよ‼」
 歯ぎしりをするように、くわえていた煙草をかむ。唾液にまみれたソレを口から取りだして、コンソールボックスに置かれた吸い殻入れに無理矢理ねじ込んだ。庸二の貧乏ゆすりは最高潮に達する。
「クソッ‼ どいつもこいつも、榎原榎原、若頭若頭……」
 頭、若頭、庸二。三人の関係性について、細かいことは昭春にはよく分からない。ただ、言葉をぶつけてくるときの庸二は、昭春の行いを本当に怒っているわけではなく、日ごろの鬱憤を晴らすことの出来るタイミングをうかがっているだけだと感じていた。そして、その「鬱憤」とは、常に榎原とその周辺だった。
 榎原からの仕事を任されるかぎり、こういった愚痴は増えるだろうな。昭春は予測される事象を、文字として淡々と思い浮かべた。
 パッケージをもいで出来た空洞。その中に次の一本がないことに気づいた庸二は、昭春に指示をする。
「おい、そこでとめろ。煙草が切れた」
「はい」
 いわれた通り路肩に止めると、庸二は外にでる。車が揺れるほど助手席のドアを強くしめると、彼は歩きだした。
「……」
 その背が消えるまで待ってから、昭春はカバンに手を伸ばす。中をひろげると、薄暗い闇の中でかすかに光る背があった。そっとつかむと、指に無数のかたさを感じる。取りだして、太ももの上に置いてみた。
 きれいだ。
 右に傾けて、反対側にも動かしてみる。一つたりとも同じ瞬間がない。縫い付けられた無数の丸、その一つ一つが、個を主張するように光った。表面をなでてみる。円のふちが手のひらをつついて、すぐおとなしくなるのが面白い。
 本の横に指を置いて、左から右へ動かす。少し黄色がかった数百ページの紙が、滑らかな動きでひらかれては閉じていく。踊るように軽やかな紙のはためきが楽しくて、何度も往復した。
 満足したところで、紙を二、三ページつまんでひらく。物語はいきなり始まった。

 私は犬を飼っている。一?ではない。ニ十?だ。
 ただ、君たちが思っているような、多?飼いではない。今まで一?に生きてきた犬が、合?二十?だというわけだ。
 時には四?一?に、時には一?一?に、私の人生には?に犬がいた。
 これを多いと思うか、少ないと思うかは君たち次?だろう。ただ言えるのは、七十年ほど生きてきて、同じ犬などみたことはない。犬はすばらしい??であり、子?であり、人生の??でもあった。
 この本では、私が今まで生きてきて出会った犬たちとの日?を?ろうと思う。
 


 犬。過去、頭は犬を飼っていた。昭春もその世話をさせてもらった。散歩もいった。犬は好きだった。
 それに。
 犬飼。
 自分の名字が、本に出てくることが面白かった。
 昭春は次の言葉を追いかける。文字は文節になって、段落になった。ページをめくる。最初の一匹は茶色の犬らしい。手になじむ毛の流れ、黒々とした目の光、太陽と土と獣のにおい。ただの文字から浮きたつ存在感。一匹の獣が、文章の間からこちらを生き生きとのぞいているようだった。
 文字の奥へと、犬が走りだす。昭春の思考も、その後ろを追いかけるように駆けだした。
 
 用事をすませ、庸二は車の方へ近づく。
「処刑人」
 普段なら、庸二が近づけば昭春は発進の準備をはじめる。しかし、荒々しい歩調で近づいても、車は静かなままだった。
「おい、処刑人?」
 名を呼びながら車をのぞきこむ。そこには、庸二に気づく様子もなく、手元の本を一心不乱に読んでいる昭春がいた。
「……チッ」
 舌打ちをすると、庸二は運転席の側面を思い切り蹴った。
 

 
 穴。ピンクに色づけられた砂糖のコーティングと、生地を貫くように開けられたその穴は、かじられることでアイデンティティを失い、中途半端な弧になる。口に含んだパーツを美味しそうに咀嚼していた銀二は、驚いて食べる手を止めた。
「えっ⁉ 漢字読めなかったのかよ、犬飼」
「はい」
 昭春が慎重にかえしたその本を、銀二は投げるように机へ置く。すべっていった先で、それは別の本にぶつかり止まった。
 ドーナツの残りも口にいれて、手についた欠片をはらう。
「どうやって読んだんだよ……」
「といっても、読める字も少しあるので、流れから推測して読みました」
「そうかよ……」銀二はあきれたようにあごをさすった。
「とても面白かったです」昭春は小さく笑う。先日みた、不気味に真似したものじゃない。ふいに出てしまった、本当にこぢんまりとした、口の動きだった。「また、よかったら貸してください」
「気に入ったなら自分で買えばいいじゃねぇか」
「自由に使えるお金をもってないので、難しいです」
「……」
 頭をかく。悟られないよう、視線を昭春に向けた。常用漢字ではないものも使われる少し大人向けの本とはいえ、そこまで読めないなんて。話し方からも、立ち振るまいからも、彼に教養がないとは感じない。深い詮索はよくないと思いながらも、今まで彼が生きてきた環境を察してしまう。
 一に命、二に金。それが銀二の考え方だ。深追いも、同情も、利益などない。本を貸したのは、昭春との距離感を探るのと、あとは、気まぐれに過ぎなかった。
 ヤクザの子飼いがどうなろうと、どうでもいい。自分とは関係ない。突き放そうとした。その時だった。
 幽霊の影が通り過ぎた。
 いや。
 そうではなかった。フラッシュバックと、後悔と、懺悔が幻となって現れただけだった。
「わかったわかった」
 銀二の口はそう返事をしていた。焦ったが、出してしまったものは戻しようがない。肩を落としながら本をつかむ。先ほどまで昭春に貸していたものとは違う表紙だ。
「とりあえず今日はこれを貸してやるけど、次はもっと簡単な奴にしてやるよ」
「本当ですか、ありがとうございます」
 無表情の顔に浮かび上がったのは、かすかな喜びだった。
 
 
 二つの白い丸が、進行方向を照らしている。銀二は帰路についていた。片手でハンドルを回しながら、本を渡したとき昭春がうかべた顔を思い出す。
(嘘じゃなさそうだな)
 本を面白いと告げたとき。次の本を貸すと言ったとき。たしかに、昭春は感情をにじませた。無表情の箱に隠そうとしても、閉じた蓋からはみ出てしまったような、漏れでた喜び。こちらの気をよくするための、嘘の気持ちには見えなかった。
(面白い、か)
 考え事をしていても、体が覚えた道順通りに動いたようだ。無事に自宅の前につく。
 二階建ての家だ。クリーム色の外壁に、薄い水色の屋根。庭に続く四角いガラスサッシ。階段の部分だろうか、丸い窓もついていた。しかし、この家のどこにもあかりは灯っていない。そのに、明るい外壁に大きな穴があいているように見えた。バルコニーには季節の間違った衣服が干してある。手入れを放棄して、とっくに枯れてしまった生け垣が寂しそうにしていた。
 車を玄関の前に備え付けられたスペースにとめると、銀二は玄関の錠をあけ家の中にはいる。
 暗い廊下は、洞窟のように思えた。手探りで電気をつける。散乱したゴミ袋を避けながら居間にはいり、銀二はそこにいる人間に「ただいま」と言った。
 返事はない。
 それは食卓机の椅子に座っていた。何日着ているのだろう、よごれきった服は洗っていない人間のにおいがした。胸のふくらみが女性であることを示している。白髪のまざった髪が長く伸びていて、どこに顔があるか分からない。
 ハエがたかるゴミ袋を蹴りながら机に近づく。銀二は、女性の前に置かれた紙を指でさした。そこには「施設入所案内」とかかれている。
「母さん、読んでくれたか? 入所にあたって準備もあるからな」
「……」
 返事はない。
 入所パンフレットに目をやる。銀二が朝ここに置いたのと寸分狂わぬ場所に、同じ角度で置いてあった。読んでいないようだ。
 つむじを眺めるが、微動だにしない。あまりにも動かないので、生きているか心配になる。しかし、胸が少し上下しているので、呼吸はしているようだった。
 母親とはもう、ずっと会話をしていない。こうして言葉をかけても、聞いているかさえ分からなかった。
「明日、準備手伝うからな」
「……」
 うなずきも、相槌も、かえってこないと分かりながら話しかける。ここまでくると、それは責任を果たしたと思うための保険でしかない。母のためを思って行動しています。そう他人に言えるようにするための、冷えきった言葉だった。本当は、今まさに母から逃げようとしているのに。
「愛してるよ、母さん」
 体面と、薄皮一枚でつながっている本心から、彼女にそう言う。
 返事は、ない。
 銀二は手を離すと、それを見下ろす。愛情も、憎悪も、すべてが切り離されていくようだった。
 居間からでる。階段をのぼれば、しめられた二つの扉があった。手前の扉には「ぎんじ」、奥の扉には「かなた」のプレートがかけられている。
 目的は奥だ。銀二は「かなた」のプレートがかけられた扉の前にたつ。
「……」
 取っ手をつかもうと手を伸ばして、止める。おそるおそる、人差し指でちょんと触れてみた。冷たい。指先をビリビリとした恐れが走った。
 目をとじる。
 息を大きく吸い込むと、瞳を閉じたまま意を決して扉をあけた。
 部屋の中に広がっていた空気の層が、銀二の体にあたる。それは、アンモニアと、排泄物と、腐ったにおいがした。暗闇に、天井からつりさげられた足が見える。
 目をあけた。
 見えていた光景は存在しない。本棚、勉強机、ベッド。それだけが置かれた部屋が、ほこりのにおいにつつまれて、そこにあった。
 思い出したかのように、冷や汗がふきだす。心臓が鳴っている音が、部屋中に響きそうだった。
 あのにおいをふいに嗅いでしまうのではないか。無意識のうちに息をつめながら、銀二は本棚に近づいた。そこには、児童向けの本がいくつも並んでいる。何度も読んだのか、所々破けている背の一つに指をかけると、本を取りだした。
 小学校低学年向けの本。難しい漢字にはルビがふってあるような、子供でもわかる内容だ。パラパラと音をたて、最初から最後まで紙を流す。これなら、昭春でも読めるだろう。
「兄ちゃん」
 幻聴だ。しかし、この部屋の本を手にするたび、銀二にはいつもこの声が聞こえていた。
「助けて、兄ちゃん」
 金太は涙ぐんだ声をだす。場所は二階の廊下。扉の前で、俺の手にすがりついていた。俺はそれをはらおうとするが、弟は必死に食らいついて離そうとしない。
「本が読めないくらいで泣くな。勉強しろ」
 まだ俺も小学生だった。だから、そんなふうにしか言えなかった、というのは言い訳だろうか?
 金太はその返事を聞いて、いっそう目に涙をためる。いらだっている俺にとって、その顔は神経を逆なでするものだった。弟をかわいく思う気持ちはある。だが、ひと時の怒りがそれを覆って、愛を価値のないものだと思わせてしまった。
「どうして勉強しなくちゃいけないの?」
 とうとう、金太は泣きだした。嗚咽の中に問いかけが漏れる。
 口をついて出そうになる弟への言葉を、銀二はかすかな理性でくいとめた。
(お前が俺より、勉強ができるからだよ)
 幼い嫉妬だった。
 金太は頭がよかった。俺よりも。だから、母さんは弟に期待した。
(お前が俺より、母さんに好かれてるからだよ)
 金太は社交性があって、人に好かれた。俺よりも。だから、母さんは弟に期待した。
 医者になること。母さんはかなえられなかった夢を、弟にあずけようとしていた。そして、その夢をかなえられない出来の悪い兄の銀二は、放っておかれていた。
 金太の大好きな物語達。勉強の邪魔になるという理由で、それらを本棚ごと銀二の部屋に移したいと母さんから言われた際すぐ快諾したのは、母親の愛情を一身にうける弟への、制裁のような気持ちからだった。
「どうして、お話を読んじゃだめなの?」
「話なんて読んでも、頭よくならねぇだろ⁉」
 胸の中でくすぶる、寂しい怒りが熱くなる。
(どうしてこんな泣き虫が母さんに期待されるんだ)
 母さんに期待されるなら、俺は本なんて読めなくてもいいのに。こんなふうに、すがったりしないのに。どうして母さんは、こうやってわがままをいう金太の方を選ぶのだろう。
 絡みついた手を強引に振りほどくと、胸を押した。弟は床にしりもちをついた。
「母さんがやれっていうんだから、やれよ」
 拒絶を感じるように、冷たく言いはなつ。弟の身体を起こしてやることもせず、自分の部屋に体をいれると、追い打ちをかけるように怒鳴った。
「俺の部屋にはいるの、禁止だからな!」
 扉をしめる瞬間、その隙間から見えたのは、絶望する金太の顔だった。
 
 
 金太は自殺した。本棚のなくなった部屋で、首をつって。第一発見者は銀二だった。
 それからいそいで本棚を戻した。「本が読めないこと」、それが自殺した理由だろうと思えた。金太の要望通り、彼が好きな本を、好きなだけ読めるようにすれば、胸に刺さった後悔がとれると思った。あの時、拒絶してしまったことへの贖罪になってほしかった。しかし、なんの意味もなかった。
 ふさぎ込み寝たきりになってしまった母親を介護しながら、銀二は医者を目指した。そうすれば、金太のためになる。それに、今度こそ母親が自分を見てくれるかもしれない。自分に言い聞かせて、借金を重ねながら必死に勉強した。
 合格した。しかし、なんの意味もなかった。母親は、銀二が医者になろうと、興味を示さなかった。
「俺が死んどけばよかったのにな」
 ハッピーエンドがまっている、幼い冒険譚をひらく。
 金太が首をつってから、銀二は弟のもっていた本を何度も読んだ。このあふれる文字達のどこかに、弟がどうして死を選んでしまったか、その答えが隠れている気がした。しかし、いくら読んでも分からない。
 銀二は、ハッピーエンドを、夢物語を、面白いと思えなかった。それは絶対にかなわない幸福であり、嘘だった。それを読んだからといって、何の意味がある? 現実の前では、紙の上に存在する明るい結末など、都合のいい、薄っぺらい、偽物でしかなかった。
「どうしたらよかったんだろうな」
 銀二は本をとじる。目をつむれば、未だに部屋の中央でぶらぶらと揺れて、こちらに手を伸ばす弟の死体が見えた。

 

 

​腔 サンプル 終​
 

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